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同窓生・恩師からの手紙
晴れて「高齢者」の弁:北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
開校前後の思い出:元教諭 遊佐悦大
申八北米訪問使節団報告:とおやま酒店店主 遠山雅士(8期)
辻秀明さん(5期)がカンボジアで奉仕活動:管理人 島本

 

晴れて「高齢者」の弁

北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
 
 高校時代といえば、人物も風景もすっかりセピア色の世界になっている。それもそのはず、この夏には65回目の誕生日を迎えるのだ。65歳。国連世界保健機関(WHO)の定義による地球規模での「高齢者」である。孫娘にはとっくに「じーじ」と呼ばれているから新鮮味には欠けるが、函館ラ・サールの卒業生がとうとうこの年齢に達したかと思うと、また別の感慨も湧く。そんなに大げさな話ではないにしても、学校の歴史にまた新たな1頁ぐらいに考えてくれると、馬齢を重ねてきた1期生にとっては大変ありがたい。
 この節目にセピア色の中身を思い出そうとするのだが、それほど鮮明にはよみがえってこない。ほどほどに笑わせる失敗談はあるのだが、何かの雑誌に書いてしまったし、再掲するのは元記者の名がすたる。かなり老化も進んでいるから、ここはひとつ現地を再訪するか、当時の悪友たちに会って脳を刺激するしかないのかもしれない。しかし、昔の面影のまったくない景色に呆然としたり、これがあの男かという立ち居振る舞いにたじろいだりすると、逆効果になってしまう恐れもある。セピア色の世界は、そのままの姿でそっとしておきたいのだ。
 とはいえ、先輩のいない1期生のせいもあるが、あのころはおおらかにのびのびと過ごしたという印象は強烈に残っている。周りにほとんど人家もなかったから牧歌的な雰囲気も漂っていた。「こら、カーテンで手を拭くな」と実験室で化学の教師に怒鳴られたり、「この生徒は授業中にいつも別の本を読んでいる」と英会話の神父さんから校長室に突き出されたり、ずいぶん叱られた記憶(ばかり)があるが、当時の校風はそんなことぐらいは包み込んでしまう懐の深さがあった。いま思い出してもあまり違和感はない。
 そんな創成期の自由闊達さをベースに、後輩たちが時代に即した要素を加えながら素晴らしい校風を築いてくれたのだろう。卒業生の活躍ぶりを見聞する度にその思いを強くしている。信念と論理に忠実に市民社会の常識を貫く裁判官がいるし、ふるさと再興に独創的、献身的に取り組む市長もいる。新進気鋭の国会議員はこれからが楽しみだし、鋭い分析を分かりやすく述べて注目度の高い学者もいる。本とは何か、本を売る営みとは何かを追求しながら社会のゆがみに挑む書店主もいる。俳優、ミュージシャン、画家といった文化人、医師も多い。自分で企業を起こすたくましい経済人もいる。層の厚さを感じさせて誠に心強い。「高齢者」から一段ランクがあがって「後期高齢者」になるころには、もっと多様な広がりと奥行きを見せて、ノーベル賞受賞者が出ているかもしれない?!
 函館市長選挙で見せた同窓生の組織力にも舌を巻いた。いまは無党派層が増えて票が読みにくいから、各陣営の選対もマスコミも世論調査に頼ってしまう。仲間を支援する同窓生軍団がその流れを一蹴してみせたのだ。世論調査では直前でも当時の現職有利だったのに、有権者を粘り強く説得する草の根運動で票読みを重ね、投票日前日にすでにVサインを出していたのだから恐れ入る。これは選挙の原点に返るという意味で大変な教訓を残した画期的な行動だったと思う。
 さて、これから先は本業絡みの話である。本や新聞を読まない人が増えている。これは本当に困ったことだと思っている。経営上も困るが、それを超えた懸念がある。情報を得る手段が多様化するのはそれ自体結構なことだが、手軽に入手できる細切れの情報だけで、あるいはウェブの世界で自分の好みの分野に没頭していて、果たして社会の出来事をきちんと把握できるだろうか。不特定多数の人々が共通の情報基盤を持たないと社会生活そのものが崩壊しかねない。
 そればかりではない。文字を記号代わりに短文のやりとりしかしていないと、まともな文章を10行も読めば頭が痛くなるのだという。これでは物を考える忍耐力も身につかず、すぐキレることになる。文字活字文化の衰退は人間の思考力をも奪ってしまう。深刻な問題だと思う。
 いま新聞界と出版界、そして読書好きの経済人が結束して、文字活字文化の復権に取り組んでいる。書物や新聞、すなわちある程度のボリュームのある文章を、時間をかけて読みこなしていくことで、人間の思考回路は鍛えられる。物事を論理的に捉え、自らの判断を導き出していく訓練にもなる。ラ・サール同窓生のみなさんも、この趣旨に賛同して大いに読みまくってほしい。そして、あの選挙でみせた組織力でこの訴えをあちこちに広げてくれたらと、心から期待している。

 
北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
 
2009年03月06日15時57分
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開校前後の思い出

元教諭 遊佐悦大
 
〈初めて校歌を聞いた時〉
 同窓会の関係者からの求めに応じ、拙文を綴らなければならなくなりました。
 函館ラ・サール高校開校前後のことなら、私だけの体験と言えるものがありますから、それらの幾つかを話す義務があるのだと考え、筆を運ぶこととします。大勢の方がご自分の体験談を残して下されば、時代毎の全体像らしきものが、朧げにでもご想像の一助となる事を願っております。
 私が「ラ・サール会」という修道会名を知ったのは、20歳前後のころでした。人家も疎らで、辺りは草茫々、雨のあとは田圃と見まがう土地に宮前町教会でポツンと建っていて、ドミニコ会の神父さんがおられたことと、その教会の古老の方から、「ラ・サール会」が、一時ここにあったということを聞かされた思い出があります。洗礼も受けていなかった当時の私には、ラ・サールそのものが何なのか、「ハァ…」と生返事を返したものでした。昭和23、4年頃の話です。それから10年後の真夏の昼下がりに、私にどうゆう運命が働いたものか、東京は代々木上原の高台にある、超上流の由緒あるお方の大邸宅のベルを押していました。函館の香雪園を皆さんは覚えておいででしょうが、あれの縮小版のような、絶句するような庭園の敷石を歩いていました。新宿界隈が眼下に展開する見事なパノラマに驚きつつ瀟洒な建物に近づいた時、大きなラブラドールがジロリと、私の人物鑑定でもするかのように睨みつけ、低音で格調高い唸り声をあげたものでしたが、どうやら犬試験官の面接試験にパスした気分でした。ベルの音は奥深い部屋に通じたようで、やがて現れたメイドさんらしき女性に封筒を渡し、「ローレント先生おられますか」と言ったものです。思い出すと顔から火が噴き出る思いです。無知、蒙昧、穴倉のモグラのようなものでしたね。番犬がイミグレーションの許可判断に逡巡したのも当然でしょう。やがてローラン先生がにこやかな表情で現れましたが、随分面長のお方だった印象が強烈でした。
 ラッキョを逆さにしたような特徴は、初代校長となられたあとも、親しみと尊敬の心をいや増すよすがとなりました。お茶を一服喫した後、こちらの部屋にくるような手招きに応じたら、そこにはオルガンがあり、「これが校歌です」と弾いてくれました。その時作詞者の安藤元雄さんの説明もなさったのでしたが、記憶にあるのは仙台ご出身の方というだけです。
 後でローラン先生は有名な音楽家だったと知らされましたが、そのかつての名声は封印されたまま、在職中は秘しておられました。謙遜なご人格に徹しておられたのでした。
〈入学試験に関連して〉
 最初の入試ですから、学校はPRに力を注ぎました。また10年先輩の鹿児島校の進学実績を利用させてもらえたことは有り難い事で、初めから好意溢れた善意に包まれてスタートできたことは感謝の言葉もない程でした。開校にともなう準備の中でも、役所などに届ける書類の多さにもびっくりしました。旧校舎の事務室が開校事務局となり、Br.ロムアルド(水上留次郎先生のこと)が局長となり、私と二本松さんがその指示に従って仕事にかかったのが昭和35年の年明け早々からでしたが、木の香とペンキの匂いの残っている新校舎を見学したいと言う来客の対応も引っ切りなしで、落ち着いて仕事をするのも大変だったですね。校舎は地震に備えて、と言うことで、中央廊下から放射状になっていたのが珍しい設計で、「日本人にはこんな設計は考えられない」と、妙なところが感心されたり、「設計者に会わせてほしい」(*Br、マルセル・クーリッシュさんのこと)とかありましたが、後日、網走刑務所の旧舎(刑務所博物館)を見て、LSと同じだわいと、妙な親近感をもったものでした。入試では799名の受験者の為に、白百合校、時間講師に内定の方まで協力していただいて、採点し、翌日の正午に合格発表をしたのがえらく感心されたりと、あのときの雰囲気は忘れることはできません。今日のような事務機器の発達があれば手間ひまの省力化ができたでしょうが、完全に手仕事だったのも思い出です。1回生の入試問題は函館少年刑務所で印刷されましたが、校正で刑務所通いをしました。翌年からは校内で印刷することになり、謄写版印刷という方法で問題作成をしたのでした。若い先生がたには「謄写版?」とかガリ版というと、それは如何なるものかと、石器時代につながるようなものに違いあるまい!と断定されそうですね。それから面接も3段階評価にして合格者の決定となり、164人が記念すべき第1回生となり、愛校精神に溢れた人材となって今日に至っております。すべては手探りで進行している時代というハンディーの中で、よく頑張ってくれたものです。
〈合格者の勧誘〉
 生徒が確実に入学してくれなければ、学校設立の意味もないわけで、次ぎの仕事は合格者の家を一軒ずつ訪問し、「是非新校舎で、外人さんが大勢いるLSで、国際的な教育を受けて下さい」と、2人づつのペアをつくり、木古内や上磯辺りまで出掛けたのでしたがローラン校長さん、アドリアン副校長さん、プティー理事長さん、レナード先生、石井先生などの訪問は絶大な効果があったようです。この時代には、外国人を街で見かけることは珍しい現象ではなくなっていましたが、今ほど多くはありませんでしたし、ましてや個人宅に訪れるというのはどこでもニュースになったようでした。家庭教育がしっかりしているお陰で、生徒の品位はかなりの評判の材料になったのでした。寮のない時代でしたから、ほぼ全員が自宅通学でした。通学手段としては市電、バス利用が大半でした。制服姿が凛々しく、帽子の蛇腹に、学年を示す1本線(*2年は2本線、3年は3本線)があり、寸暇を惜しんで車内で読書する姿は感動をよんだものでした。この1回生の評価が、優秀な2回生へ、それがさらに3回生へ繋がりと言う具合に、いつしか伝統がつくられたのでした。私にはどの職員の方も、ブラザーさんと同様に立派な方々で、学ぶことの多い職場でりありました。
〈カルチャーショック〉
 祈りを土台として、善意の塊のようなブラザーさんだけに、この世離れの面もありましたが、それを2つ取り上げて見たくなりました。その一つは給料の遅れた事です。開校事務にあたっていたのは、私と二本松さんの2人なので、ブラザーさんもついうっかりしたもののようで、月末にはサラリーが支払われるものと期待していたのに、1月は無給でした。わが家の財布は底を衝いたのですが、どうもサラリーのサの雰囲気もありませんでした。2月に入り、上旬も過ぎ、依然として音無しの構えで、私も焦りました。中旬も下旬もパーでした。つまり2ヶ月も給料が出なかったので、困りました。一言「給料はいつ出るのですか」と聞けばいいものを、それが言い出しにくくて、言いませんでした。親から借金してなんとかしのいでいたわけです。かくして3月にはいった上旬か中頃か、夜分にブラザー水上先生の訪問があり、「アドリアンさんが忘れていて、大変に済まないことをしました」と謝られ、溯って支払いを受けた時には、当たり前といえば当たり前なのですが、嬉しかったですね。
 学校が正式に授業にはいり、最初の俸給日となり、授業の終わった職員から校長室にはいったのですが、これ以上この世に嬉しいことがないという表情でローラン校長が待っておられました。「はい××先生、どうぞ。与えるものは幸いです」とやったものですから、一寸まずい雰囲気になったことがありました。聖書からの引用と分からぬ方にはカチンときてしまったのでしょう。もう一つは「お幾ら?」があります。これはカナダではポピュラーなジョークのようですが、何かを善意でしてあげたときなど「おいくら?」とくるのでした。私は慣れていたので「金1トンです」と言えばそれでお互いに笑って、一件落着となるのでしたが、しかし、これは日本人にはなじみにくいものです。かなり昔、1回生の菅野剛造さんが、オーラス校長に何かしてあげた後、クルリと回れ右をしたとき「おい、こら」と言われてびっくりしたら、「おいくら」の聞き違いだった事を回想記に載せていたことがあったのですが、親しい仲だからいいようなものの、そうでない時のことは互いに慎重に、かなりのゆとりをもって対応するように心掛けるべきが人生じゃ、ということになるのでありましょう。
 思い出は沢山ありますが、同僚のことに触れると、触れ損なう方がでてきたりしますから、ブラザーさんのことだけに触れました。この厳しい世の中で、善意を身に纏って生きている方々のお陰で、余命いくばくもなく「おくられびと」となる私は、感謝とお詫びを反復しながら、皆さんとお別れしますが、どうか、ブラザーさんを善意で支えてあげてくださればと心から願うものです。また、ファミリースピリットはこちらが放棄しないかぎり、ブラザーさんから放棄されることのない宝だと肝に銘じてください。
 あの世では、生きていたときになし得なかった事、償わなければならなかったこと、やり残していたことなどで、毎日は、かなり多忙になりそうですが、感謝をもって回想できるラ・サール会に関係するすべてに、今度こそは沢山々々祈りの慈雨を送り続けることを約束致します。卒業生の皆さん、平安のうちに輝かしい日差しの中を賢明に歩み続けてください。

 
撮影/管理人島本
 
特別養護老人ホーム「旭ヶ岡の家」でボランティアの薪割りをして一息。
 
2009年03月06日15時57分
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申八北米訪問使節団報告

とおやま酒店店主 遠山雅士(8期)
 
 それは誰かの言った一言から始まった。
 「そうちゃん*1がニューヨークにいるうちに一度みんなで訪ねてみないか」
 昨年の1月、札幌で開いた同期会の四次会、ホテルのtotoking*2の部屋に集まった6人の話である。実は三次会で大騒ぎをしているところにニューヨークのそうちゃんから電話がかかってきたのだ。「遊びに来いよ」「オウ、行く行く」そんなやり取りがあった。
 「ところでニューヨークまでいくら掛かるのよorzの魔法使い*3」誰かが聞いた。
 「2月だと3万円だ。一番安い。お盆と年末が一番高くて15万ぐらいかな」
 「そうちゃんの家にはベッドが4つとバストイレが2つあるらしいぜ。宿泊代はそれでクリアだべ。後は時間があればいけないことないか。みどりちゃん*4に聞いてみようかな」といわた書店*4’、「俺は仕事があるから無理かな、でも行きたいなあ」とゆういち*5と電車おじさん*6が答えた。「俺も仕事次第でどうなるかわからんな」ととらにゃん*7、「あ、俺は無理無理。店があるから」とtotoking。
 「いや、行こうという気持ちが大事だよ。行けば何とかなるもんだ。」とorzの魔法使いが言った。世界43カ国を訪ねた実績を持つ彼の言葉は妙に説得力がある。50代も半ばを過ぎた酔っ払いのオヤジたちのはかない夢に思えたその与太話は半年後にはからずも実現することになる。実現のきっかけはみどりちゃんの内助の功であった。みなに先駆けていわた書店はみどりちゃんに渡航話を切り出したところ、今までいただいた原稿料を貯金してあるからそれで行ってたらとの返事。部屋で一人になって思わずガッツポーズが出たらしい。これで一気に皆がNYに行く気になった。その功績は大きい。
 もうひとつの要素として、この話はMIXIを抜きに語ることは出来ない。2006年9月に8期の仲間を集め、函館ラ・サール高校8期同期会のコミュニティが立ち上がった。略して「申八コミュ」。http://mixi.jp/view_community.pl?id=1280009
当初はいつまで続くかと思われたのだが、3年目を迎えた現在、同期生350人中50数名が参加している。トピックの書き込み数が6,000を越すものを筆頭に4,000、5,000の書き込みがあるものも複数あり、その活発さが伺える。メンバーの中には日本全国はもとより遠く海外で活躍しているものも少なからずいる。ニューヨークのそうちゃんをはじめとして、モントリオール在住のたき*8、モーリタニ ア、ヌアディブ在住のHide*9、インドで出家をしているNaka*10などがそうだ。「申八コミュ」は時間とともにただの同期生の連絡ツールではなくなってきた。この旅行は言うに及ばず、このコミュの中から中古の広辞苑を日本語を学んでいる留学生や外国の学生に寄贈したり、モーリタニアの学校に文房 具や古着のプレゼントをしたりする活動が生まれた。さらに熱心に参加しているメンバーに嵐を呼ぶ男*11と言う歌人がいて、同じく俳句をたしなむたきとともに皆を指導してくれて、歌会や句会を毎月開いて楽しんでいる。http://www5f.biglobe.ne.jp/~yas007frommunakata/kadanhaidanindex.htmこのようにメンバーはこのツールを使い、卒業後38年の時空を超えていまなお友情の構築をしているのだ。50代のオヤジ達がMIXIをうまく使っている例としては他にないのではと思う。
 話を元に戻そう。夢を語った6人のうちどうしても仕事の都合で参加のかなわなかった電車おじさんを除き、紆余曲折の末に5人のオヤジが6月6日にニューヨークに向けて旅立った。他にも都合さえつけば行きたかった仲間がいたことは言うまでもない。成田に集まった5人はまるで修学旅行の学生そのものの興奮ぶり、それがこのあと11日間も毎日続いたのだから、今考えても息災無事で帰れたことは天の思し召しであろう。この旅行の計画を立てるうちに、モントリオールのたきにも会いたい、じゃあ近くに住むラクロア先生やプティ先生、アドリアン先生にも会えるんじゃないかということになり、たきに連絡をお願いした。せっかくだからナイアガラにも行こうと話はどんどんふくらみ、NY、ナイアガラ、 モントリオールを結ぶ一辺700km計2,100kmのドライブも体験することになった。 
 NYについた日の夜などは早速それまでの旅の画像をアップして、一緒に来ることが出来なかったMIXI仲間に報告した。翌朝のNY からモントリオールまでのドライブはそれはそれはにぎやかであった。57歳のオヤジどもが見る物すべてに興奮しっぱなしなのだ。天候にも恵まれ、6月としては暑いぐらいの30度近い気温の中モントリオールに到着した。セントローレンス川に面したたき宅の庭で38年ぶりの旧交を温めていたそのとき、一陣の風とともに漆黒の雲が川の向こうに湧き上がり突然大粒の雨が降り注いだ。空を見るとその雲の合間に見える太陽はまるで何かに怒っている者の目のように見えので、誰ともなくこれは来たくても来ることの出来なかった嵐を呼ぶ男の怨念ではないかと言う話になった。そのにわか雨も程なくやみ、たきの奥様手ずからの料理とワインをいただき、高校時代の思い出話とともにモントリオールの第一夜は更けていった。
 さて、ラクロア先生と対面の当日はやってきた。ラ・サール会のホームにお住まいの先生は少しお年を召されたかなと言う風情であったが、なつかしいあのやさしい笑顔は健在で僕達を迎えてくれた。僕達が在学しているとき先生は30代だったことになる。もっと年上だった印象があるのだが、先生のお話を逆算すると卒業してからの時間と今の先生のお年からではそういうことなのだ。ただ8期といっても先生はぴんと来ない様子だったが、たきがいわた書店を「ムッシュ学園紛争」と紹介すると「おお!学園紛争!!」と当時の記憶がよみがえったようで、それから話が弾んだ。いわた書店が代表して「68年~70年に函館ラ・サールの生徒であった事は僕らにとってとても幸運で貴重な体験でありました。当時の大場.・遊佐・野元各先生をはじめとする先生方が皆真摯に向き合ってくれた事を忘れる事ができません。あの時の経験がその後の人生を生きる為の精神的な支えになり、そうして今、僕らはここに居るのです。」とメッセージを伝えた。38年前の対立はここに氷解し、新たな一歩が記されたのだった。ぜひまた函館に遊びに来てくださいというと、先生はバイクで 転んで痛めたという足を見せて、行きたいけど無理だろうとおっしゃった。小一時間の話の後われわれはいとますることにしてお別れを告げた。先生は痛む足を 引きずりながら玄関まで見送りに出てくださった。それぞれの思いが胸を走る。もうお会いすることもないのかと思うと急に胸が締め付けられ、こみ上げてくる ものを抑え切れなかった。心残りはプティ先生、アドリアン先生にお会いできなかったこと、と言うのもアドリアン先生は既に鬼籍に入られ、プティ先生は折悪しくお留守だったのだ。今は、お世話になった先生方の豊かな余生をお祈りするばかりだ。(その様子はこちらからhttp://www.youtube.com/watch?v=0mj1gtAEk1c&feature=related
 この旅の終盤でもうひとつうれしいことがあった。それはモーリタニアに赴任する途中のHideとNYで待ち合わせ38年ぶりの再会を果たしたことだ。その夜、その昔ギャングが店の前で撃ち殺されたと言う伝統?のあるステーキハウスで、みなでわいわいと語り合いながらワインとステーキに舌鼓をうったのも思い出深い。翌日、彼は雷雨に見舞われたNYケネディ空港からアフリカに向けて飛び立った。彼はわざわざみんなに会うために一日を費やしてNYに降り立ったのだ。そのエネルギーたるやいかばかりか。さすがアフリカ生活15年の男であると一同そのバイタリティにすっかり感心させられたものだ。卒業してなお、38年がたってこんな体験が出来るのもわがラ・サール高校だからに他ならない。今度はヨーロッパかアジアかはたまたHideのいるアフリカか、オヤジどもの夢は続く。
 註( ここでは登場人物にMIXIのハンドルネームを使った。本名は脚注の通り)
 *1:森田壮平君(三井化学USA社長、2009年3月限りにて帰朝)
 *2:遠山雅士(筆者 とおやま酒店店主)
 *3:沖田好正君(沖田電子技研代表)
 *4:岩田みどりさん(岩田徹氏の妻)
 *4’:岩田徹君(いわた書店店主)
 *5:坂本祐一君(室蘭市立病院勤務)
 *6:山崎康弘君(栗山町松原産業勤務)
 *7:大野英士君(苫小牧商工会議所勤務)
 *8:金谷武洋君(モントリオール大学日本語科科長)
 *9:岡村英之君(システム科学コンサルタンツ(株)勤務モーリタニア在住)
 *10:中里行深師(日本山妙法寺インド在住)
 *11:新谷恭明君(教育学者、九州大学教授)

 
ラクロア先生とともに
 
玄関まで見送りに出てくださったラクロア先生
 
2009年03月06日15時56分
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辻秀明さん(5期)がカンボジアで奉仕活動

管理人 島本
 
辻秀明さん(5期)のカンボジアでの奉仕活動が北海道新聞(2009/03/03)に掲載されました。 写真と共に報道用資料をご紹介します。


「安くていい家をつくる会 来夢(らいむ)ハウス辻木材株式会社がカンボジアに学校を寄贈」
~世界の恵まれない子供達に「幸せのおすそ分け」を~

 笑顔や笑い声が絶えない幸せな家庭、子供をのびのびと育て教育もしっかり出来る・・・ そんな子育て世代の家族こそ住まいを必要としています。
 「だからこそ若い家族が安心して建てられる「安くていい家」を提供するのが我々の使命である。」
 来夢(らいむ)ハウス辻木材㈱の辻 秀明社長は常々言って来ましたが、「子育て世代を応援する」という理念に沿ってこの度カンボジアの子供達の為に学校を寄贈しました。
 ポルポト政権の大粛清の傷跡がいまだに癒えないカンボジアでは子供の数に対して圧倒的に学校が足りず、校舎を建てる費用も無いのが現実だと言う。
 何故学校?という問いかけに「お金や食料はもちろん大切ですが、長い目で見てその国を将来背負っていく子供たちの教育が何よりも大切だと思ったからです。
 そして私たちは建設業者ですから建築物で貢献出来ればと思ったからです。
 もちろん私たちが材料と手間をもって施工するのには遠すぎる為、現地で活躍しているNPOのJHP・学校をつくる会を通じてお願いすることにしました。」
 私たちは約4年前に立ち上げた来夢ハウスの第一棟目をお引き渡した時から、お施主様の住まいの引越しが無事に終わるたびに「幸せのおすそ分け」という名前で1棟に付き5,000円の貯金をしてきました。今回はその預金を基にして志を同じくする全国の「安くていい家をつくる会」の仲間とも協力して行った仕事なのです。
 「人生の夢である「家づくり」を出来るお施主様は幸せ、そしてお施主様の喜ぶ顔が見られる私たちはもっと幸せです。
 この「幸せのおすそ分け」を恵まれない方々の為に使おうと考え積み立ててきました。家のオーナーであるお施主様も自分達の家づくりが世界の恵まれない人たちに役に立っていることをきっと誇りに思ってくださるはずです。今後もいろいろな形での貢献に役立って行きたい」と辻社長は語っています。
 南国の熱い陽射しの中で子供達の本当にうれしそうな笑顔は格別なものでした。言葉は判らなくても目と目で感じられる幸せ、まさに「心に太陽を!」でした。

 

 

 
2009年03月06日15時55分
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